東重胤・胤行父子(共有版)

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March 07, 22

スライド概要

「みんなの推しプレゼン会」アンダーザミント担当分(2022-02-26)。
東重胤・胤行父子について話しました。
本番で出せなかった/ボツにしたスライドもあります。

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趣味で作ったスライドを公開しています。歴史もののマニアックなネタが中心です。

関連スライド

各ページのテキスト
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第2回 みんなの推しプレゼン会 2022年2月26日(土)20:00~? Presented by アンダーザミント

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《発表者自己紹介》 •アンダーザミント twitter:@underthemint •源実朝と、彼の側近くに仕えた人々を推 しまくるオタク。 •とくに和歌に関わった人たちが大好き。 ⇒その中で、誰について発表しようかと 考えていましたところ……

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アンダーザミントの推し とうの し げ た ね たねゆき 東重胤・胤行父子

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《本題に入る前に》 よくある間違い。 「あずま」じゃないんです。 ……とはいっても、初見で「とう」と は読めないのが悩み。 画像の出典: 『源実朝』大佛次郎 著 昭和53年 六興出版(東京)版による

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アンダーザミントの推し とうの し げ た ね たねゆき 東重胤・胤行父子 【ここから本題です】

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《千葉氏→東氏略系図》 胤正[千葉介] 師常(相馬) 胤盛(武石) 千葉六党 千葉常胤 胤信(大須賀) 胤通(国分) 胤頼(東) 重胤 胤行

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《本拠地どのへん?》 下総国東庄、三崎庄など (現在の千葉県香取郡東庄町と、 その周辺) チーバ君の耳の付け根あたり。 北東側は今でいう利根川。 湿地帯が多かった? 低い台地と 豊かな草原が特徴。 東庄町の特産品: • いちご • 小かぶ • 豚肉 さっきの画面の右下にかぶが いたのは、そういうことです。

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《当時の地形はこんな感じ》 拡大 荘園名に色を付けているあたりが東氏の所領 だったそうです。 画像の出典: 中世の房総半島の地形図:大穴地区の歴史|船橋市立大穴中学校 学校サイト ※ただし拡大・追記は発表者による。

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《千葉(東)胤頼:親父が凄すぎる件》 • • • • • • • • 1155(久寿2)~1228(安貞2) 千葉常胤の六男、母は秩父重弘の娘、仮名:六郎大夫 若かりし頃、上西門院(後白河院の同母姉)に仕えていた。 ↑遠藤持遠(文覚の父)の推挙によって仕えるようになった、とい う経緯らしい。しかもその持遠の娘を娶ったり、文覚の弟子になっ たり。このへん全て出典は『吾妻鏡』文治2年(1186)正月3日条。 上西門院の周りは和歌を好む人々が集っていた。胤頼はそんな中で 教養を身につけた? それがやがて息子→孫へと伝わった? 頼朝の信頼が厚く、「東六郎大夫胤頼の息子達が、上洛して本所 (荘園領主)や瀧口(内裏の警護役)に勤める時は、今後はその子 細を告げることなく、進退をその意に任せる」。『吾妻鏡』建久5年(1194)10月29日条 父より高い位階(常胤:正六位上、胤頼:従五位下だから「大夫」なんです)。 下総の目代を討ったの、たぶん彼です。例の首桶くんの中の人……

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《東重胤》 • 生没年不詳(1177?~1244?1247?) 系図によって違うので頭抱えてます • 千葉(東)胤頼の嫡男、母は遠藤持遠の娘? 仮名:平太 • 『吾妻鏡』の初出は建久6年(1195)8月16日条。 鶴岡八幡宮での流鏑馬の射手として。 その後、頼朝~頼家期の『吾妻鏡』の記載は1回のみ ※梶原景時弾劾のための連署状に署名したうちの一人。 ちなみに署名の筆頭が千葉常胤 • 実朝の元服の儀式のとき、「役送」を務めた若い近習の6人の うちの一人。御膳(もしくは儀式で使う道具)を運ぶ役目。 • その後は各種儀式や歌会に顔を出していたところ……

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《『吾妻鏡』建永元年(1206)11月18日・12月23日条》 しでか下「 た、ら総無 。と歌国双 そうをのの しと贈所近 てうら領仕 ど怒れに」 うらて下と なれも向ま ってましで た蟄だて呼 か居帰数ば としらかれ いてな月た いしか。重 ままっ将胤 すいた軍が とまの家、 。

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《ハヤクカエッテキテ…😢》 • 実朝、歌を送っても帰ってこない重胤にしびれを切らして 「もういいよ、呼んでも来ない平太なんてだいきらい……」 • 「そんなに来たくないんだったら、もう来なくていいよ」 ⇒将軍家が怒ってると聞いて重胤は籠居。 • おそらく実朝(このとき15歳)、重胤が側にいなくて寂しいや ら、遅参したことに対してはきっちり罰を与えないとという義 務感やらがない交ぜになって、なんか落ち着かなくなってたの かも。 • そして1か月と少しが経った12月23日、重胤はなぜか北条義 時のもとへ……

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《そして北条義時の反応……》 ('A`)マンドクセ

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《ナンデスグニカエッテコナカッタノヨ😠》 • 重胤、義時に「将軍家のお怒りを蒙って、もう気が滅入ってど うしようもありません…」 • 義時「こんなことは宮仕えしてたらよくあることだよ。こういうときに は、お詫びに歌でも詠んだらいいんじゃないかな」 • 重胤、即興で歌を一首詠んで義時に渡す。義時、重胤を門外に 待たせて実朝のところへ歌を持っていく。 • 重胤、そのあいだ落ち着かなかったのか門外をうろうろ。カワイイ。 • 義時、実朝の前に重胤の歌を置き、「彼はこんなに嘆いていますよ。 ちょっとかわいそうですよね?」 • 実朝、重胤の歌を三度読み上げ、「ところで平太はどこにいる の? 会いたいから呼んできて」 • そして実朝と重胤は歌の話が尽きず、重胤は中座した義時を庭 まで送って、手を合わせて感謝。めでたしめでたし?

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《みんなかわいい?》 • 実朝:とにかく寂しくて重胤に会いたかったん だけど、ちょっと暴走しちゃったね。そのあと、 「どうしよう……😢」となってしまってるの もなんか想像できる。文句なくかわいい15歳。 • 重胤:「ほんっとうに申し訳ございませんっ。 下総でいろいろあったので、なかなか帰れなく て」将軍さまがいつまでたっても許してくれな いからめちゃくちゃ焦ったんだろうな。ずっと 居てもたってもいられなくてうろうろしてたの かも。 • 義時:絶対めんどくさそうな顔して対応してた だろ。

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《その後の重胤》 • その後はふつうに仲直りして、幕府の歌会や蹴鞠の会に出席したり、ホト トギスの初鳴きを聞きに行ったけど結局鳴かなくて寂しく帰っていったメ ンバーの中にいたりと、文化的な行事の時には必ずと言っていいほどいる 存在だった。 • 上洛して半年ほど滞在している間に、熊谷直実の最期を見届けていたり。 • 良くも悪くも、おおらかな性格だった? だから実朝が懐いた? • 彼の名前が最後に『吾妻鏡』に出てくるのが、実朝の右大臣就任の拝賀式 の日の随兵として。例の悲劇の次の日に多数の御家人が出家したが、重胤 がその中にいたかどうかは不明。 • ただ、時期こそ不明ながら出家していたことは確か。いくつかの記録に 「東兵衛入道」の表記で出ている。 • いろいろな意味で、実朝とともにあった人生だったのかも。 • ただ惜しむらくは、歌が残っていない模様。これはこのあたりの時代のほ かの御家人も同様の状況。しかし……? ⇒続きは後のスライドで!

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《息子:東胤行》 • 生年不詳~弘長3(1263)年7月?おそらく実朝より少し年下。 • 東重胤の嫡男、仮名:六郎 • 『吾妻鏡』の初出は建保6年(1218)11月27日条⇒後述。 • 父とともに実朝の側に仕え、同様にお気に入りだった模様。 • ただし、実朝期の彼の動向については、上述の『吾妻鏡』の記 事と『金槐和歌集(柳営亜槐本)』に収載の贈答歌以外には記 録がない。 • とりあえずその頃から和歌が上手だったことはよくわかりまし た。

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《『吾妻鏡』 建保6年(1218)11月27日条》 息子よお前もか。 • 「しかるに去ぬるころ下総国海上庄に下向し、久しく帰参せ ざるの間、将軍家御書を遣はさる、是早く帰り参上せしむべ しの由なり」要するに、領地から帰ってこないから早よ帰れ。 • たぶん領地でいろいろあったんだろうなと思いつつ、親子2 代で12年越しになにやってんだと……。 • ところで、息子の回では実朝が送った歌が載っていますね。 次のスライドで解説します。 • 父親の時は思春期のちょっとしたすれ違いというか我儘とい うか、な感じだった実朝、27歳ともなるとしっとりと寂しさ が滲み出している。といっていいのか。 • ちなみにこの歌を送られた胤行は鎌倉に帰って来たのかどう か。そこが不明なんです。 • じつは、この歌を初めて見たとき、初句の「恋しとも」でちょっとドキッ としました。たぶんそういう意味じゃないと思うんですが。

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《ハヤクカエッテキテ…😢 ver.2》 と「こ い恋と男 う歌も性 遊にあ同 び例る士 要えがで 素た、恋 みらそ歌 たこうっ いういぽ ないうい もっ意歌 のた味を 。かで送 んはり じなあ 」くう ※ りこ まの せ歌 んに 。返 歌 が あ っ た か ど う か は わ か いて訴う本 るもえ気当 面重か持に もいけち寂 あけてにし るれい神く のどるにて でも。誓、 は、見っ胤 ?半よて行 分う嘘に 冗に偽会 談よりい めっはた かてない しはいと てととい 空五 に十 知鈴 る川 ら頼 むむ 心 し 深 け れ ば 天 照 る 神 ぞ 【 参 考 歌 ② 】 正 治 二 年 後 鳥 羽 院 二 度 百 首 杜思 のは 神ぬ しを 知思 らふ さと む言 は ば 大 野 な る 三 笠 の 【 参 考 歌 ① 】 万 葉 集 ・ 巻 四 大 伴 百 代 なくでの言い【 さ思し知っ」雑 いっょるてなな )てうといど訳 い。こると】 ま(ろの思も すことないし 。のならも私 だとり、しが かお、空な「 らり天のいあ 早、罰上でな く心をの口た 帰か下天にが っらさ照出恋 て恋れ大しし きしる神て 空 に 知 る ら む ひ さ か た の 天 照 る 神 も 恋 し と も 思 は で 言 は ば

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《ハヤクカエッテキテ…😢 ver.2.1》 ながとうな いい歌かに のたを、、 でと通素こ はいじ敵の 。うてな一 点心貝糸 でを合乱 は通われ こわせぬ れせと連 以てい係 上いうプ のたかレ 好御。ー 例家実と は人朝い とでれを浜 てした飛辺 も でょ浦びの きうを移千 まかどり鳥 せ。うはは ん 将 しし、 よ軍 。 家 てま仰 の 忘する こ れが通 と る、り を こ長た 忘 といく れ る が間さ な で住ん ん きみの て る慣島 うあ暮沖 しならの てたす波 頼の千が り心鳥寄 にがのせ 出一よる 来つう様 るだに々 のとあな かはち島 。思こを い えち渡 や な飛り で き いび歩 な 。回い い どるて 。 【 返 し素 雑 かふ浜 し がむ沖 け暹 な がと千 る法 頼 千 つ 師 訳 】 忘も鳥 ま鳥波 も れ住八 むみ十 こ島 しか 浦け をて い通 素 暹 法 師 む心八 ひ十 と島 つか とけ いて か住 の に 罷 り 侍 り け る に 、 つ か は 《 『 金 槐 和 歌 集 ( 柳 営 亜 槐 本 ) 』 よ り 》

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《胤行はその後……》 • 美濃国郡上郡山田庄(現・岐阜県郡上市大和町)の新補地頭と なる(おそらく承久の乱の戦功で)。 ※なので、いま郡上市では「郡上東氏800年」で盛り上がってます。 • 九条頼経~宗尊親王期に歌会に出仕する一方、何度か上洛して 公家との交流もあった模様。藤原隆祐(家隆の嫡男)など。 • 藤原定家に会おうとして門前払いを食らった。その経緯はきっ ちり『明月記』に記されている(天福元年(1233)二月七日条)。 なんでも定家さん、腰が痛くて起き上がれなかったみたい。ちなみにこのとき胤行は、直垂を着て牛車に乗ってきてたらしい。 • 寛元年間あたり(1244~1246年)に出家、法名:素暹(そせん) • 連歌にも熱心で、『沙石集』に逸話が残っている。重い病で命 が尽きそうなときに、最後の機会だとばかりに連歌の会を催し ていたり。 • 『続後撰和歌集』以降の勅撰集に22首入集。そのほか、『東撰 和歌六帖』などの私撰集にも歌が見える。

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《重胤の和歌?》 性 ?と い う こ と は 、 重 胤 の 作 で あ る 可 能 覚 然 ( ま た は 覚 念 、 覚 善 ) 系 図 に よ る と 重 胤 の 法 名 は そ れ で 法 名 を 注 記 し た か ? 照諱 しを て一 い文 た字 資忘 料れ かた ら? 抜 け歌 て集 い編 た纂 ?時 に 参 • ち な み に 、 こ の 四 首 前 に 息 子 の 歌 • さ白 く雲 らの を絶 何え にて まし がな へく んは あ し ひ き の 山 の ⇒ 関【 東東 の撰 歌和 人歌 の六 歌帖 を】 中後 心藤 に基 編政 纂撰 さ、 れ鎌 た倉 歌時 集代 。中 期 、 作 一『 者 首東 名 撰 「 和 平 歌 重 六 帖 法 』 名 に 覚 収 然 載 」 の 和 歌 山 た か み あ ら し に な び く 白 雲 の 残 る こ ず ゑ や 桜 な る ら ん

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《その後の東氏》 • 胤行の嫡男・泰行と次男・義行は下総の 所領を継ぎ、三男・行氏は美濃に移った。 • 下総は先細りになってしまうが、美濃の ほうは栄えた。室町時代には国人領主と して奉公衆(将軍直属の軍事力)となり、 また代々二条派の歌人として勅撰和歌集 に入集していた。 • 胤行から6代(7代?)後の常縁はとくに 有名。右の肖像画の人。 「古今伝授の祖」⇒古今和歌集の歌の 読み方や解釈を伝えていく形式を整え た。 やっと肖像画がある人物に たどり着いた感。 右の画像の出典: 國文学名家肖像集(博美社) 1939年5月25日

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《ところで、郡上はいいぞ!》

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《むすび》 • 鎌倉武士に教養がないなんて誰が言った? • 鎌倉時代の初めのほうで既にこういう歌が詠める東国の武士が いたんですよ。 • 源実朝が数々の名歌を残せた背景には、彼ら親子のような人々 の存在があったのかもしれない。 • 逆に言えば、彼らと実朝のような人との出会いがなければ、そ の後も和歌の家として続いていなかったのかもしれない。 • ところで、重胤さんのあのエピソードが大河ドラマで映像化さ れませんかね……。いちおう義時絡んでるんで。 • 武家の和歌はいいぞ!!

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ご清聴ありがとうございました。

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《出典・参考文献》スライド内に記載したものは省略。 • 画像出典 • フリー素材(かぶ・赤かぶ・いちご・豚・黒猫・千葉県の地図):イラストAC • https://www.ac-illust.com/ • 吾妻鏡(吉川本)の画像(国立国会図書館デジタルコレクション) • https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920991 20,21,73ページ • 東撰和歌六帖の画像(国立公文書館デジタルアーカイブ) • https://www.digital.archives.go.jp/item/4423222 22-23ページ • 参考文献 • • • • • • 『千葉一族の歴史 全国に広がる系譜・史跡・伝承』, 鈴木佐編著, 戎光祥出版, 2021 『東庄町史 上巻』, 東庄町 (千葉県), 1982 『大和村史 通史編 上巻』, 大和村 (岐阜県), 1984 ※大和村は現在の郡上市の一部。 『大和村史 史料編』, 大和村 (岐阜県), 1978 『金槐和歌集』(新潮日本古典集成〈新装版〉 ), 樋口芳麻呂校注, 新潮社, 2016 『源実朝』, 斎藤茂吉, 岩波書店, 1943 • https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1127626 • 『万葉集』(新編日本古典文学全集 6), 小島憲之,木下正俊,東野治之校注・訳, 小学館, 1994

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《出典・参考文献》スライド内に記載したものは省略。 • 参考文献(続き) • 『沙石集』(新編日本古典文学全集 52), 小島孝之校注・訳, 小学館, 2001 • 説話集に見る連歌—東入道素暹を通して—, 浅見和彦, 『国文学 解釈と鑑賞』66(11) (2001), pp.65-73 • https://ci.nii.ac.jp/naid/40001342951 • 花の下連歌初期の諸相, 鈴木康正, 『芸文研究』issue 36(1977), pp.196-207 • http://ci.nii.ac.jp/naid/120005256888/ja/ • 鎌倉時代の東氏—東国武士の歌の家―, 外山信司, 『千葉県史研究』第11号別冊 中世特集号 (2003), pp.57-70 • https://www.pref.chiba.lg.jp/bunshokan/contents/11-saishin.html • 中世武士の肖像(第17回)東・木内氏 : 京・西国で活動する東国出身の武士たち, 野口実, 『本 郷』 (125)(2016), pp.22-24 • https://ci.nii.ac.jp/naid/40020944786 • 参考ウェブサイト • 千葉氏の一族 • https://chibasi.net/index.htm

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《ボツスライドその1:本題に入る前に自分の腹筋が力尽きそう》 Google検索が笑わせにくる件。 没年が不明だとこうなるらしい。 おそらく、他の人物でも似たような事例 が存在するかと。 それにしてもおかしいとは思わんかったのか。

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《ボツ(というか忘れてた)スライドその2:偶然短歌??》 Twitterの「偶然短歌bot」 (@g57577)によると、 Wikipediaの源実朝の記事のな かで偶然57577になっている 箇所がこれなんだとか。歌人の 記事で偶然短歌というだけでも 面白いのに、そのうえそこが 57577になるの? と爆笑し た記憶が。 ※偶然短歌bot: Wikipediaの記事の中で偶然57577に なっている箇所を自動でtweetするbot。 「研究で、ネコが砂糖に関心を持たないこ とは示されていた(ウィキペディア日本語 版「ネコ」より)」のような名作(?)も。

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《ボツスライド2:Googleマップ》 この当時の東氏が暮らしたとされている場 所から、鎌倉は大蔵の御所までの移動を想 定してGoogleMapで検索してみたところ、 おそらく4時間弱で行けるみたいです。 鎌倉駅から御所までバス使わなくても、とはちょっ と思った。

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《話したら長くなるので泣く泣く外したスライド:宝治合戦》 • そんな彼も、宝治合戦では……。 ※千葉秀胤(千葉惣領家の分家・上総千葉氏/三浦泰村の妹婿) の息子泰秀に、胤行の娘が嫁いでいた。 宝治合戦で泰村が自害した次の日、胤行は北条時頼に秀胤の追討 を命じられた。何をしやがる。 その次の日に胤行が上総の秀胤の館に着いたときにはすでに館は 炎上していて、秀胤と息子たちは揃って自害していた。 当時、胤行の娘と泰秀との間には男の子が生まれたばかりで、そ の子をなんとか救えないかと胤行は奔走した。※数え年1歳=その年に生まれた。 結果、子供は胤行が預かることが認められた。 ⇒その後は諸説あり。