ちょっとわかる厳島の戦い

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February 11, 24

スライド概要

「厳島の戦い(厳島合戦)」については、江戸時代に創作されたストーリーがそのまま通説となって語られてきた歴史があるそうです。
マンガなどでも通説をベースにしているのでぼくらもそれを読んで「毛利元就は戦国一の謀将だ!」などと評価しがちですが、同時代資料をもとにじっさいに起きたことを整理すると少し様相が異なります。
今回はツアーの参加者募集も兼ねて、厳島の戦いについての最新研究や通説の修正点についてまとめてみました。

【城たび】あなた毛利元就派? 陶晴賢派? ガイドと巡る厳島の戦いツアー
https://kojodan.jp/travel/plan/4880.html

宮尾城(広島県廿日市市)
https://kojodan.jp/castle/211/

【参考文献・動画】
『中国新聞』「ひろしま歴史回廊」(2007年、秋山伸隆)

「厳島と軍記物語 ―毛利氏関連軍記を中心に―」(2018年、長谷川泰志)
https://hue.repo.nii.ac.jp/record/354/files/kenkyu2018410202.pdf

YouTube「新説・厳島の戦い~創られた奇襲戦~」(2022年、しかかく)
https://www.youtube.com/watch?v=IV44UvJMaUQ

「隆元さんー厳島合戦てんこもりの巻ー 」(2023年、パニック熊)
https://kojodan.jp/books/3383/

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日本全国の城好き・城めぐり愛好家が利用するサイト「攻城団」を運営しています! https://kojodan.jp/

関連スライド

各ページのテキスト
1.

ちょっとわかる厳島の戦い 2024/2/11 攻城団こうの

2.

主な登場人物の年齢(厳島合戦=1555年(天文24年)時点) 歌川国芳「木曽街道六十九次之内 藪原 陶晴賢」(見立絵) 大内家(陶家) 毛利家 大内義隆 1551年死去 毛利元就 59 尼子経久 1541年死去 吉見正頼 43 毛利隆元 33 尼子国久 1554年死去 江良房栄 1555年死去 吉川元春 26 尼子晴久 42 陶晴賢 35 小早川隆景 23 弘中隆包 35 毛利輝元 3 大内義長 24 紙本著色毛利元就像 (毛利博物館蔵) 尼子家 尼子晴久像 (山口県立山口博物館蔵) いずれも数え年。 陶晴賢と毛利隆元が同年代、毛利元就は尼子国久と同年代。

3.

背景・位置関係 「合戦地図で読み解く戦国時代」 榎本秋(SBビジュアル新書) P.38 ※⼭⼝城を⼤内⽒館に修正 大内氏館

4.

厳島合戦への流れ(防芸引分) • 1551年(天文20年)、大寧寺の変で大内氏が事実上滅亡 • 陶隆房(晴賢)のクーデターにより当主・大内義隆が自害させられた(嫡男も) • 大友晴英(大内義長。大友宗麟の弟で母は義隆の妹)を新たな大内家当主として迎えた • 毛利元就はこのとき晴賢に味方して、佐東銀山城などを攻めている • 安芸国衆の多くが配下となり、毛利の勢力圏が拡大した • 1552年(天文21年)、尼子晴久が備後を攻める • 晴賢らは政変後の処理に追われていたため元就を中心に防衛し、撤退させる • 元就が攻め取った旗返山城を取り上げて陶家臣の江良房栄を城番にしたため関係悪化 • 1554年(天文23年)、三本松城の戦い • 前年、津和野の吉見正頼(義隆の姉婿)が挙兵したため討伐に • 晴賢は元就に出陣するよう要請するが、嫡男の隆元が反対する • 隆元の正室は大内義隆の養女 • 元就が参陣しないので、晴賢は安芸国衆の分断を図る • 平賀弘保が使僧を捕縛して元就に渡す • 元就は晴賢と戦うか、晴賢に平賀親子をつきだすか、二択を迫られ手切れを選択(防芸引分)

5.

厳島合戦の定説 クーデターにより主君・⼤内義隆を討った陶晴賢を討つべく、⽑利元就は⼤内⽒(陶⽒)からの離 反を決める。しかし⻄国6か国を有する陶⽒に対していまだ国衆レベルの⽑利⽒が勝てる⾒込みは 薄く、元就はその勝機を厳島に⾒出す。多くの軍勢を展開することが不可能な狭い厳島におびき出 すことができれば、兵⼒の差は無効化できるからである。 ただ歴戦の名将である晴賢がそうやすやすと誘いに乗るわけもなく、元就はあらゆる⼿を打つ。 まず後顧の憂いを断つため、尼⼦⽒へ謀略を仕掛けた。当主・尼⼦晴久とその叔⽗で新宮党を率い た国久の関係を悪化させ、国久とその⼦・誠久ら⼀族を誅殺させ、尼⼦の戦⼒を弱体化させた。 次に陶⽅の重⾂・江良房栄が⽑利に内通している偽⽂書をつくり、晴賢に粛清させる。さらに厳島 に宮尾城を築き「ここに城を築いたのは失敗だった」と噂を流す。同時に重⾂で桜尾城主の桂元澄 にウソの寝返りをさせ、元就が厳島へ出陣すれば吉⽥郡⼭城を攻めると晴賢に約束させた。 こうした布⽯を打ち、ついに陶晴賢が動く。晴賢は2万の軍勢を率い、500艘の船団で出港すると厳 島に向かった。陶軍は⼤元浦から上陸すると、塔の岡に本陣を置き、宮尾城を取り囲んだ。 ⼀⽅、4000の兵を率いる元就は最後の仕上げとして村上⽔軍300艘を味⽅につける。 9⽉30⽇の深夜、暴⾵⾬の中、元就率いる⽑利軍本隊は厳島東岸の包ヶ浦に上陸すると、博奕尾を 越えて陶軍の背後にまわった。 翌朝、奇襲を仕掛けると、それに呼応して厳島神社沖から⼩早川隆景率いる別働隊、さらに宮尾城 の籠城兵も城を打って出て三⽅向から陶本陣⽬指して攻撃する。油断していた陶軍は総崩れとなり、 島から逃げ出そうとするが、沖で待ち構えていた村上⽔軍により撃沈された。 追い詰められた晴賢は⼤江浦で⾃刃、戦⼠した陶軍の兵は4700を超えたという。 戦後、元就は戦死者を供養して、厳島神社の神域を穢したことを詫びて社殿の清掃や修築をおこ なった。 ⽂・こうの

6.

厳島合戦の定説 クーデターにより主君・⼤内義隆を討った陶晴賢を討つべく、⽑利元就は⼤内⽒(陶⽒)からの離 反を決める。しかし⻄国6か国を有する陶⽒に対していまだ国衆レベルの⽑利⽒が勝てる⾒込みは 薄く、元就はその勝機を厳島に⾒出す。多くの軍勢を展開することが不可能な狭い厳島におびき出 すことができれば、兵⼒の差は無効化できるからである。 ただ歴戦の名将である晴賢がそうやすやすと誘いに乗るわけもなく、元就はあらゆる⼿を打つ。 まず後顧の憂いを断つため、尼⼦⽒へ謀略を仕掛けた。当主・尼⼦晴久とその叔⽗で新宮党を率い た国久の関係を悪化させ、国久とその⼦・誠久ら⼀族を誅殺させ、尼⼦の戦⼒を弱体化させた。 次に陶⽅の重⾂・江良房栄が⽑利に内通している偽⽂書をつくり、晴賢に粛清させる。さらに厳島 に宮尾城を築き「ここに城を築いたのは失敗だった」と噂を流す。同時に重⾂で桜尾城主の桂元澄 にウソの寝返りをさせ、元就が厳島へ出陣すれば吉⽥郡⼭城を攻めると晴賢に約束させた。 こうした布⽯を打ち、ついに陶晴賢が動く。晴賢は2万の軍勢を率い、500艘の船団で出港すると厳 島に向かった。陶軍は⼤元浦から上陸すると、塔の岡に本陣を置き、宮尾城を取り囲んだ。 ⼀⽅、4000の兵を率いる元就は最後の仕上げとして村上⽔軍300艘を味⽅につける。 9⽉30⽇の深夜、暴⾵⾬の中、元就率いる⽑利軍本隊は厳島東岸の包ヶ浦に上陸すると、博奕尾を 越えて陶軍の背後にまわった。 翌朝、奇襲を仕掛けると、それに呼応して厳島神社沖から⼩早川隆景率いる別働隊、さらに宮尾城 の籠城兵も城を打って出て三⽅向から陶本陣⽬指して攻撃する。油断していた陶軍は総崩れとなり、 島から逃げ出そうとするが、沖で待ち構えていた村上⽔軍により撃沈された。 る い て れ ら 盛 ろ い いろ 追い詰められた晴賢は⼤江浦で⾃刃、戦⼠した陶軍の兵は4700を超えたという。 戦後、元就は戦死者を供養して、厳島神社の神域を穢したことを詫びて社殿の清掃や修築をおこ なった。 ⽂・こうの

7.

マンガでもだいたいそんな感じ 「コミック版 ⽇本の歴史 戦国⼈物伝 ⽑利元就」 すぎたとおる, 中島健志, 加来耕三(ポプラ社)

8.

厳島合戦の実像(秋山伸隆先生らの研究による最新の学説ではこうらしい) 通説は江戸時代初期に毛利家家臣による『吉田物語』や毛利家分家の家臣が書いた『陰徳太平記』を元にしたストーリー。 厳島神官の回想記『棚守房顕覚書』は同時代資料で、かつ第三者(しかも現地での目撃証言)によるものなので信頼度は高い。 陶晴賢との対立 大寧寺の変に際し、元就は晴賢方に加わっている。また変後も陶氏に従っており、その後に断交。 尼子氏への謀略 史料はない。元々両者には対立があり、晴久の正室である国久の娘が死去したことを契機に誅殺されている。新宮 党の粛正により晴久は家中統一をなし遂げており、尼子家衰退はもう少し後の話。 江良房栄の内通 『陰徳太平記』にあるエピソードだが史料はない。 なお見返りとして内示された300貫の給地では満足せず、さらに加増を求めたという「毛利家文書」の記述は別人 物との指摘がある(和田秀作先生)。おそらく和睦を進言したことが原因で疑われて殺されたのではないか。 囮(おとり)として宮尾城を築城 大内氏時代から宮尾城(宮之城・宮要害)はあった。大内氏では出陣の際に戦勝祈願をするならわしがあり、また 厳島は瀬戸内海の交通の要衝で堺や博多の商人が集まる要地でもあった。その防衛&監視拠点としての城。 桂元澄が偽の裏切り 史料がないのでおそらく創作。 陶方2万 vs 毛利方4千 『国史大辞典』にも「陶方本隊二万余が元就の謀略で誘引された形で厳島に上陸(中略)毛利勢四千弱」とあるが、 じっさいには毛利方は5000人程度はいた。陶方は晴賢の家臣団のみなので1万程度、当初は陸路を侵攻しており、 膠着状態だった山間部(山里)にも兵を残しているのでもっと少ない可能性も。『桂岌円覚書』には両軍3000人程 度とある。とくに陶方の水軍は事前に切り崩されており、来島村上水軍の加勢により海上では毛利方優位に。 村上水軍の協力 合戦に参加したのは能島・来島・因島のうち、来島村上家のみ確認されている。 暴風雨の中、出陣 おそらくなかった。9月30日は新月なので闇夜に乗じて渡海したと思われる。 陶方は一矢にも射ずに撤退 『棚守房顕覚書』の記述だが、三浦越中守や弘中隆兼らは戦っているので抵抗はしている。 山室恭子先生は、そもそも感状が一通も残っていないことに注目(「群雄創世紀」朝日新聞出版)。 毛利元就は感状を出せる立場にない=毛利元就が主役ではなく、村上水軍vs陶氏の戦いだったのではという指摘もあるが秋山先生は否定。 (ただし来島村上家への礼状のようなものは残っている)

9.

厳島の戦いの疑問点 • なぜ陶晴賢は厳島へ進軍したのか(別の選択肢はなかったのか) • 防長引分時点、三本松城の戦いが行われていたため晴賢は動けなかった • 6月、宮川房頼(房長)を派遣したが折敷畑の戦いで敗れて討死 • 8月下旬、吉見氏と和睦して晴賢自ら毛利討伐に • 尼子氏と組んで毛利を挟撃しようと画策している(新宮党粛清により実現せず) • 安芸への侵攻ルートは陸路(山間部=山里)か海路(厳島経由) • 当初、晴賢は陸路を選んだが、膠着状態になり抜けなかった • 三浦越中守や厳島神領衆が海路に切り替えることを提案し受け入れた(弘中隆包書状) • 結果として二正面作戦となり兵力は分散されることに • なぜ陶晴賢は自害したのか • 村上水軍により陶方の船が破壊されたり沖に流されており、逃げる船がなかった • なぜここまで話が盛られたのか(勧善懲悪すぎるストーリー) • 毛利輝元が家臣団統制のために祖父・元就を英雄化 • 八か国の大大名から防長二ヶ国へと大幅削減されたため家臣へしわ寄せが • 不満を持つ藩士の出奔や粛清が相次ぎ、家中は混乱状態だった • 黒田家譜など藩祖称揚によって家のピンチを乗り越えるケースは多い

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現地を訪問して感じた疑問 こんな狭いところに 2万人も軍勢を展開できる? 宮尾城 500mくらいしかない 塔の岡 厳島神社 出典:国土地理院ウェブサイト 仮に展開できたなら 500人で籠城した城なんて 1日で落ちるのでは?

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で見てみよう

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合戦の経過 9月21日、陶晴賢が軍勢を率いて厳島に上陸。宮崎 山(塔の岡)に本陣を構えた。 20日まで厳島神社の秋の祭礼が行われていたので それが終わるのを待ったから? 9月24日、毛利元就は佐東銀山城を出陣、水軍基 地でもある草津城に着陣。 9月26日、小早川水軍が出陣。 9月27日、宮尾城の堀はほぼ埋まり落城寸前。 悪天候のため総攻撃は延期? 令和3年6月山口市長定例記者会見 記者発表資料 な神楽があり、それらにどのような異同があるのかを紹介します。 【イベント】 ・ギャラリートーク 毎月第3日曜日 13時30分~14時00分 ・ミニ講座1 「『かぐら』ってなんだろう?-山口市内の神楽から-」 令和3年7月31日(土) 14時00分~15時00分 ミニ講座2 「山口市内の神楽-過去と現在から伝承を考える-」 令和3年9月18日(土) 13時30分~15時00分 ・映像配信 会期中に山口市内の神楽映像を山口市YouTubeチ ャンネルで公開します。 ②「西郷家文書―つわものどもが筆の跡―」 9月28日、元就は宮尾城に援軍(熊谷信直)を送り 込む。入城に成功。 軍船が足りず包囲網が不完全(弘中隆包書状)。 9月29日、来島水軍が合流(200〜300艘)。 9月30日、毛利軍が厳島に進軍。元就は包ヶ浦(杉 之浦とも)から上陸、博奕尾に進む。毛利隆元、小早 川隆景、来島水軍は海上で待機。 10月1日、本戦。卯の刻(6時)に毛利軍の奇襲攻撃 開始。陶晴賢が大江浦で自害。 弘中隆兼書状 天文24年(1555年)9月29日 西郷家文書 【弘中隆兼書状 天文24年(1555年)9月29日】

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城たびのご案内 3月24日(日)開催! 現在参加者募集中!!

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以上です。 ご清聴ありがとうございました。 参考文献・動画 『中国新聞』「ひろしま歴史回廊」(2007年、秋山伸隆) 「厳島と軍記物語 ―毛利氏関連軍記を中心に―」(2018年、長谷川泰志) YouTube「新説・厳島の戦い~創られた奇襲戦~」(2022年、しかかく) 「隆元さんー厳島合戦てんこもりの巻ー 」(2023年、パニック熊)